#06 ベビーショップ・モトヤ創業

1948年12月4日。いよいよ、4人の女性がベビーショップ・モトヤを開店します。
わずか2台の陳列ケースからスタートし、4人は家庭と仕事の両立を考え、分担し驚異的に働きました。

(写真:エプロン)

1948年、いよいよ開店の日が決まった時、それぞれの家庭の条件に合わせて役割を分担して、製品づくりを急ぎました。お互い主婦として母として失格しないよう、家庭と仕事の両立をよくよく考えて分担を決めましたが、実際は想像以上に忙しく、結局は誰もが分担以上の仕事を引き受け、驚異的に働き、なんとか製品を用意できました。
1948年12月4日、神戸トア・ロードの角からセンター街に入った山側の3軒目、モトヤ靴店の中に2台の陳列ケースだけの「ベビーショップ・モトヤ」が開店しました。ケースに陳列された商品は、あかちゃんの肌着やベビー服、アップリケや手刺しゅう入りのよだれかけ、エプロン、子ども服。また手編みのレギンスやサックコートなど、どれもこれも手作りのかわいらしい上品なムードのものでしたが、今から思えば、商品とはいえないほどの素人っぽいものでした。

製品づくりは、一番年長の田村光子が自分の家に小さな裁断台とミシン、アイロンを置き、主として生産の責任を持ち、田村江つ子は、手芸とセンスの良いアートの図案で手腕を発揮していました。
村井ミヨ子は編み物と販売を担当し、販売と仕入れの責任は坂野惇子がもっていました。
坂野惇子は毎朝子どもを幼稚園に送ったその足で、田村光子の家に立ち寄り、出来上がった製品を持って出勤し、連日夜遅くまで働きました。

(写真:ジャンパースカートセット)

街にはジングルベルが流れ、クリスマスツリーも飾られるようになった戦後3年目の暮れ。敗戦のイメージは薄れかけていました。しかし、まだまだ衣料品は乏しく、街には洗えばすぐ剥げるような粗悪な衣料品が出回っていた時代、ベビーショップ・モトヤの製品は、刺繍糸や生地に外国製の超一級品を使用して異彩を放っていました。
戦前から蓄えていたフランスの刺しゅう糸や英国製の毛糸、珍しい刺しゅう用の布地など、良質なものを使って生産しているため洗っても色落ちせず、その上布地は必ず長時間水につけて、地のしをして一度縮ませてから使っていたので洗濯後も型くずれしませんでした。そんなベビーショップ・モトヤの製品はたちまち評判になり、日に日に口コミで広がっていったのです。

クリスマスが近いある日、ガラガラに空いた陳列ケースが少しでもクリスマスの雰囲気でにぎやかになるようにと、デコレーション用に銀色のベルや柊の葉を買ってきて、簡単な飾りつけをしたのでした。
ふとベルの中にキャンディをいれて、留守番している子どもへのおみやげにしようと思いつき、早速キャンディをつめたベルをセロファン紙で大きく花のように包み、赤いリボンの結び目に柊を添えてみると予想以蔵に効果的で美しくでき、その瞬間「これなら商品としてもすぐ売れるのではないか」とひらめいたのでした。

(写真:キャンディベル)

これらを『キャンディベル』と名付け、クリスマス・プレゼント用とかいたPOPをたてて100円の値段をつけると、並べたとたんに売れたのでした。子ども向けに作ったつもりが、当時流行しつつあったダンスパーティなど、大人のクリスマスパーティのおみやげにも飛ぶように売れたのです。
このとき、包装ひとつで製品に新しい魅力が加わりたくさん売れたことを、坂野惇子たちは喜ぶと同時に、アイデアで勝負する強さを身をもって経験したのです。

こうして、模索しながらのベビーショップ・モトヤの開店でしたが、人気が高まるにつれて、別誂の注文なども受けるようになりました。ところが彼女たちは商売が下手で、しばしば元田氏や夫たちをびっくりさせました。
労賃やデザイン料を含まずに計上していた経営のやりくりに、周囲は苦笑しながらも商売を教え、やがて彼女たちも商売のコツを得るようになっていったのです。

ファミリアの軌跡